日本歌謡界の大御所、
作曲家の船村徹氏の育った、
塩谷町 船生村 に近い日光市の東のはずれ
ポツンと一軒だけの旅館が、
日帰りの入浴にも対応して呉れている。
2月17日 11時51分
「王将」や「矢切の渡し」などのヒット曲で知られ、文化勲章を受章した作曲家の船村徹さんが、16日、心不全のため、亡くなりました。84歳でした。
船村さんは栃木県の生まれで、独学で作曲法を学んだのちに、昭和28年に作曲家としてデビューし、春日八郎さんの「別れの一本杉」などのヒットで評価を高めました。
昭和36年には村田英雄さんの「王将」が戦後初めてのミリオンセラーとなり、作曲家としての地位を不動のものにしました。
また、昭和53年からは、ギター1本だけを携えて全国各地を回りながら曲の構想を練る「演歌巡礼」という試みを始め、「風雪ながれ旅」や「兄弟船」それに「矢切の渡し」など、男の人生や別れをテーマにした演歌のヒット曲を次々と世に送り出しました。
船村さんは日本作曲家協会や日本音楽著作権協会などで長年要職を務め、これまでに旭日中綬章や紫綬褒章などのほか、去年、文化勲章を受章しています。
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上は鬼怒川にかけられた梁で、年中やっている。
この辺りと、山縣有朋記念館の中間にある塩谷町に、大作曲家船村徹の生家がある。三角屋根のユニークな造りが、如何にも芸術家の生まれた家というたたずまい。緑の季節には、前の畑にトウモロコシなんぞが植えられていた。
日光にゆく通り道だったりするので、何度か通ったことがある。
だが今では、近くに大きな道路が整備されたので、その道はもう通ることはない。
84歳とも云えば、うちの爺様が亡くなった歳でもあるわけで、50年前のそのころでは、たいそうな長命だと感じられた。それから半世紀、今では男でも 90歳を超えるのは普通となった。まだまだ ご活躍いただきたかった。
いまは日光市となった、以前は今市市。そのまんなかの大通り(国道119号線)の街のど真ん中。その道路の東側に、何年前のことか船村徹記念館が作られた。何度かその脇を通ったが、まだ存命なのに記念館とは気が早い。とか感じた次第で、まだ中を見たことがない。
報道に依れば、心不全による突然の死だったようで、老衰というほかないのだろう。
ブログの管理者も、68歳であり、聞くのは訃報というのが多くなった。
人生にはかぎりがある。
船村音楽の多くでは、別れが謳われてきた。
籠岩 というところに、温泉がある。いつか、その湯につかってわが郷ばかりではなく、日本の大作曲家のことを偲んでみたいとおもう。
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