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鰊 (ニシン) の話

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  2〜3日前にスーパーで、生の鰊(ニシン)を売っているのを見た。生きが良くて、ぴかぴか光っていた。ただ小ぶりなので、買うまでは味覚の触手が、動かなかった。

 土曜とか日曜には政治の話題を外して、魚とかの食材を取り上げる様にしてきた。昨日のネタは、思い切りクドかったのか評判があまり宜しくない。そこで今日は、定例の肴談義とする。


 鰊は獲れなくなって久しかった。それが近年獲れだした。

 それでわが郷の近所でも、お店に並ぶようになった。

 

     ニシン


 ネット情報では、戦後10年もすると、ニシンは全然獲れなくなったと書いてある。小生が生まれたのは、朝鮮戦争の前々年で1948年なのだが、小学生の低学年のころは、結構喰っていた。食べていると云っても、あまり好きではなかった。骨っぽくって、何かヘンな味がする。なんといったらよいのか、言葉では言い表せぬが、始めて飲みはじめた、コカコーラの薬臭い味、料理の専門書などで謂うところの、アルカリの味がした。


 そして最近のスーパーで売っている鰊は、すべて冷凍物の輸入品となった。

  いつぞや近所でも、品揃えの高級で売っている、そんなスーパーで、大ぶりまるまるが燻製っぽい処理で売っていた。お腹が弾けて、綺麗な色の、数の子が見えている。これを美味そうに思って買ったのだが、自分のほかの家族は「いらない」という。かみさんまで、乗り気では無かったような。年が離れているので、彼女の子供のころには、国内産の鰊など途絶していた頃なのか。

 

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青山家の鰊場経営について

     ( 佐藤 利信 氏の研究論文の一部、御紹介です。紺色文字の部分 )

 第二章 青山家の鰊場経営について

第1節 青山家
 
青山家の初代当主である青山留吉は、江戸時代後期の天保7年(1836)に庄内藩領の飽海郡遊佐郷青塚村(現山形県飽海郡遊佐町青塚)に生まれた。安政6年(1859)に、松前藩領下の蝦夷地高島場所シュクツ(現 北海道小樽市祝津)へ出稼ぎに行き、以後、郷里遊佐青塚と祝津を往復しながら鱈釣漁、鰊漁に従事した。明治2年に祝津に永住し、祝津において本格的に鰊漁場の経営を始め、祝津三大漁家の一つまでになる祝津青山家と郷里遊佐での豪農青山家の繁栄の基礎を築いた。この二つの青山家は、留吉が漁場開放に合わせて本格的に鰊漁をはじめた明治10年(1877)、郷土遊佐の青山家と祝津青山家に分家させたものである。

遊佐青山家は、北海道での鰊漁で得た財を元に田畑を購入し、豪農として名高く、全盛期には遊佐町の徴税の半分を占めていたほどであったようだ。『漁業王『青山留吉』の人生』によると明治37年(1904)には、嘉左ヱ門家名義で田畑・山林約250町歩、分家名義で約45町歩、山形県酒田市に別荘2棟、東京青山に土地を所有していた。 (ご紹介は此処まで)

 現在の貨幣価値に直すと、年間20億円の収益があったという。豪農というよりも、今の感覚では企業家である。貧しい半漁半農の家に生まれ、複雑な人生行路の荒波を乗りこえて、田地田畑そして山林を、300町歩つまり、300ヘクタールほども残した。その出発が苦難と算段のすえに手に入れた、200坪の海の漁業権であった。

 

 鯡の利用目的は、食用としてよりも肥料として、ひろく農家に利用された。小生の家にも稻わらで編んだ、カマスという袋に保存してあるのを見たことがある。身欠きニシンは今でも、スーパーなどに並んでいるが、あれの身がボロボロでかなり黒ずんだものと思えば、イメージはあたっている。これを水田に撒いて、今でいう有機肥料としたのである。

 それが儂の中学生の頃は、国内では全然とれなくなった。

 それほど好きではなかった、あの味がこうなると無性に懐かしい。

鳥 禽 鶏鳥 禽 鶏

 

 小学生の低学年の頃、数えるほどしか喰ったことない味が、口の中に甦る。

 今はない母のやさしい面影が、脳裏にありありと浮かぶ。

 それが近年になって、群来(くき)が見えるほどにもなったのだという。群来とは産卵受精のために、海岸に押し寄せる鰊の精液で、海が白く濁る現象のことをいう。2月から3月の頃がこの時期に当たり、この春を待つ冬の海が、漁の時期だった。それでニシンのことは、春告げ魚ともいうのだそうな。

 

 漁が途絶えた原因は、乱獲、森林の荒廃そして気候変動などが、研究者たちによって想定された。それで稚魚を育てて放流したり、周辺の森林を保護したり、なによりも小さなニシンは獲らずに、保護育成に努めた。

 内陸の農家、左近尉が実感できることは、我が家の小さな庭の植え込みでも、雉が営巣して子を育てられる。この庭木の圃場は、荒れ放題になっている。きっかけは小泉改革で貸しはがしに遭い、会社をたたんだことにある。この原因を造った大手銀行は、紙幣を印刷して凌いでいるのに、何故中小零細の企業家ばかりが、ワリを喰わねばならぬのか。それで税金などは、なるべく節税と考えた。それでいつの間にか、庭木の圃場は葛とか、藤蔓の伸びるがままとなった。これでその下は、天然の茂みとなった。枯れ葉が積もり、風が入らぬので何年も重なった腐葉土となる。そこにミミズが湧いてくる。つまり我が家の雉は、枯れ葉を食って育った、ミミズを喰って育つ。失ったものは多いが、得たものもある。鶏小屋なしで、雉を飼うこととなった。

 猛禽類の禽たちや、鷺などは蛙を喰う。カエルはオタマジャクシの内は、腐った枯れ葉を水の中で喰らう。手足がとれる頃にもなれば、害虫などを捕らえて喰う。日本は貧しい国という考えは間違いで、実はとっても豊かなのだ。鯡場漁が魚を加工するために、森の木を乱伐して火を焚いた。西欧や北アフリカの文明は、森を悪魔のすみかのように考える。木を切って武器や農具、そして煉瓦を焼くために、たくさんの火力を必要とした。もともと乾いた気候で植物の生長には適さない、そのような気候風土で是をやったので、北アフリカや中央アジアには沙漠が広がった。地中海の沿岸でも、大きな木はほとんど無い。あっても針様樹の糸杉などは、死の樹木 と思われていて、日本などのように崇拝されることはない。

 

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 喰い方は、塩焼き。

 塩を塗して、じっくりと焼く。

 ぞんざいなようだが、是が美味い。


 巻頭の絵のお嬢さんが食しているのが、酢じめにしたモノ。

 塩を塗して、2〜3時間於いておく。水気が出たならば、酢で洗って前もって作っておいた、マリネ液に浸す。これで亦、2〜3時間あるいは2〜3日冷温保存して、好みで適頃に喰う。

 

   枯葉が落ちれば、狩猟の季節

 

付け液の作り方は、適当な酢がベースとなり、砂糖とか塩そしてタマネギとか人参、パセリのガルニを合わせる。昔いたホテルでは、ニジマスのマリネを大量に、作り置きしていた。ワタを取っただけの、姿のままで小麦粉をまぶして、油で揚げる。これをバットにならべて、上からさきほどのマリネ液を乗せるのだ。ふと思ったのだが、鰊の場合は、小麦粉に塗して油で揚げる、の過程が省いてある。これは何故なのだろう。 

 

 

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アクセスの記録  2011.11.19(土)    2951  PV     557  IP      837 位  /  1655813ブログ

 

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